都立三田高校硬式野球部創設記

硬式野球部1期 山中弘己

 それまでは嫌いだった野球。神宮観戦をきっかけに好きになり、小学校6年生の時、地元の少年野球チームに入り白球を追いかけ始めました。中学生時代は、一度バスケ部に入部したものの、1年生の途中から野球部に転部し、再び野球小僧として引退まで過ごしました。高校受験の際は、都立進学校が最低条件であった為、受験できる範囲で一番上の三田高校を受験しました。野球部が無いというのは承知の上で受験しましたが、当時野球への思いというものはそこまで強くなく、野球部のない高校へは行かないという考えはありませんでした。それになければ作ればいいかという安易な考えを持っていました。

 三田高校入学後は、バスケ部に入部しましたが、日が経つにつれて、野球への思いが強くなっている私がいました。そのような気持ちのまま入部して3カ月が経った頃に足を怪我してしまい、もともと練習についていくのが大変だったこともあり、バスケットボール部を退部しました。その後は、同じクラスの友達と連日、放課後に公園で集まりキャッチボールなどをして遊んでいました。そんな生活をずっと続けていた冬休みの最終日、自宅にて遂に母と姉からお叱りをうけました。いつ行動するのか、誰かに創設の思いは訴えたのかといった内容で、校長先生への直談判を勧められました。こうして翌日、野球部設立の第一歩を踏み出しました。

 3学期の始業式が終わり、同じクラスの友達に直談判の件を伝えると、校長室の前まで一緒に付いてきてくれました。覚悟を決め、校長室のドアをノックし、中へと入りました。校長先生に野球部設立の旨を伝えると、二つ返事で了承を頂きました。拍子抜けしている私へ続けて、運動に関する事は体育科の許可も必要である旨も説明を受けました。一難去ってまた一難、しかも、次の壁は相当高く、体育科のトップは私の所属していたバスケ部の顧問でした。翌日になり、体育科に行きその旨を伝えると、予想通り駄目の1点張りでした。確かに、うちの高校はグラウンドが狭く、病院や小学校、ビルに囲まれているため、反対されるのは当たり前で、予想もついていました。ただ、なにか打開策はあるのではと思い、話を続けようとしましたが、全く聞く耳を持ってくれず、結局1年生の間での創設は叶いませんでした。

 2年生としての1日が始まった入学式のその日、新任教師の中に前の学校で野球部を受け持っていた人がいると聞き、微かな希望と、どうせうちの高校に来るぐらいの人だからという半分半分の気持ちでその時は受け止めていました。そして、運命の数学Bの授業を迎えました。後に野球部の顧問になるM先生は、最初の授業にも関わらず、スーツではなく野球のウェアを着て教室に入ってきました。自己紹介を聞いていると、予想通り野球部の顧問であったことから、この先生を顧問に迎えれば野球部が作れるのではないかという希望と、どんな人が来てもこの学校は変わらないという現実的な気持ちで放心状態となり、その後の話と授業は耳に入ってきませんでした。その日の放課後に早速、担任の先生からM先生が呼んでいると告げられ、どちらについての呼び出しか考えながら職員室へ向かいました。M先生は、廊下の机に座らせるや否や、開口一番「野球部を創りたいんだって?」と聞いてきました。授業を聞いていなかったことを怒られずに済んだという安堵感と共に、いや、それ以上に、遂に動き出したという感動が押し寄せてきました。その後、野球部を創るためには、まず2週間後の生徒総会までに最低でも部員を10人集め、野球同好会を設立することから始めなければならないと告げられました。

2年生になっていた私達の多くはすでに部活動に所属していた為、部活動に入っていない人の中から、部員を集めるのには苦労しました。最初に誘ったのは、1年の時から野球部が出来たらマネージャーをやると宣言していたS・Sさんでした。案の定、参加してくれるということになり、晴れて最初の仲間となりました。 次に、別のクラスに野球をやりたいと考えている人がいるとの情報を得たので、早速会って話をしてみました。彼はY・W君といって、中学時代も野球部に所属していたらしく、二つ返事でOKをもらえました。またY・W君は、1年生の時は別のクラスだったこともあり、今まで私と付き合いがなかった人を勧誘してくれたので、とても助かりました。次に声をかけたのは、後に主将になるN・S君でした。彼が教室移動の際に硬式球を握りながら歩いている姿を目にしており、諸事情により退部をしていた為タイミングよく誘うことができました。その後は、唯一の伝手である1年の時のクラスメイトをあたり、一緒に校長室の前まで来てくれた5人の友人に声をかけました。その中で当初から野球部創設に協力的であったT・K君と男子マネージャーとしての入部ならOKと言う変わり者のK・S君の二人が入部してくれました。

Y・W君から、野球部参加に肯定的な意見を持つ人がいると聞き、野球未経験ながら身体能力の高いS・T君を誘いました。グローブすら使ったことのなかった彼は、後にM先生から「チーム一の努力家」と評される程、実力をつけた人物です。次に誘ったのは、後の女房役となるJ・A君でした。創設奔走初期に一度声をかけていたのですが、再度勧誘に向かい、Y・W君の半ば強引な説得の甲斐もあって、入部してくれました。今考えると、彼が入部をしていなかったら誰が捕手をしたのだろう、誰が四番に立っていたのだろうと恐ろしく思います。8人目のメンバーは、吹奏楽部に入っていたK・W君です。すでに部活に入っていたために、本格的な活動はできず創設後すぐ退部してしまいましたが、野球部創設という事で名簿内に名前を貰いました。

 同学年に当てがなくなってきていた一方で、M先生が1年の教室に貼っていた勧誘のチラシを見て4人の入部検討者が集まってくれました。その中の3人は軟式野球を希望していたため、残念ながら入部とはなりませんでしたが、硬式野球でもいいと快く返事をくれたのが、設立当時唯一の1年生となったH・K君でした。マネージャーとしてもう1人、1年の時に同じクラスだったK・Hさんも入部してくれて、晴れて同好会設立条件となる10人と高野連規定の人数をクリアしました。

長いようであっという間の勧誘活動は終わりましたが、学校からの承認を得ないと正式な同好会設立にはなりません。M先生が必要な手続きを進めていてくれたことで、残された私の仕事としては、部長会での活動指針や練習場所の説明と来たる生徒総会へ向けてのスピーチの準備でした。部長会での説明は、M先生から渡された原稿を見ずに、その時の自分自身の気持ちを素直に伝えました。その甲斐もあってか、無事に部長会の承認も得ることができました。51日の生徒総会で再度、全校生徒の前で設立への思いを訴え、異論無しで晴れて設立へと至りました。

まずは野球同好会として活動の一歩目を踏み出した三田高校野球部に、N・S君の中学時代の同級生で野球経験者のY・K君とマネージャーとして一年生のR・Kさんも加わってプレイヤー9名、マネージャー3名の計12人で秋季大会へ向けた練習を開始します。柔道場での基礎体力作りを中心に、軟式専用ではあるものの学校の近くの芝公園グラウンドで練習を行いました。何度目かの芝公園での練習の際に、恐らく三田高校のOBと思われる方が練習球を差し入れしてくださいました。私の身近な人だけでなく、卒業生の方が応援してくれているという事実を目の当たりにした感動を今でも覚えています。そんな私の思いとは裏腹に、活動当初は個々の部活に対する思い入れに差が目立ち、特に休日で学校のグラウンドが使えるというのに、先生と私しかグラウンドにいないという時が度々ありました。

私たちが初めて硬式球を使って練習をしたのは5月の終わりの頃だったと思います。硬く重く、何より痛かったのを覚えています。ただその痛みが、ようやく硬式野球部としての第一歩を踏み出せたと、感じさせてくれました。6月にはM先生の以前の赴任先である府中西高校との初めて合同練習と練習試合をさせてもらいました。練習試合の結果は6回で0-28。野球の実力はもちろんですが、それよりも部活動として野球に取り組む姿勢に差を感じた1日でした。

時期尚早ということもあり、夏季大会への参加は見送り、夏の猛練習に耐え抜いた三田高校野球部は秋季大会を迎えました。記念すべき初の公式戦の対戦相手は多摩高校です。チームの中には、多くの人の前で試合をするのが初めての人も何人かいました。しかし、そのメンバーを鼓舞する程の気持ちの余裕を私自身も持っておらず、流れに任せるままに試合が始まり、長いのか短いのか感覚を忘れる程の5イニングが終わりました。結果は0-41。野球の難しさ、一球の重み、何より浮ついていた心への野球の神様からのお叱りを痛感した試合でした。ただ、これらの感情よりも私達の中にあったものは、『楽しかった』という感情でした。M先生はこの時、私達はこんな試合を経験したので、もう野球は嫌だと言うに違いないと思っていたそうです。しかし蓋を開けてみれば、生徒達からこんな言葉が返ってきた為、困惑と使命感を抱いたと語っておりました。メンバー全員が自分達の現状を知り、足りない物の多さを思い知った1日でした。これを機に、全員が高校野球というものに真剣に向き合うようになったのではないでしょうか。当たり前のことなのですが、気が付けば全員が休日の練習に参加するようになっていました。

都会に位置する三田高校はグラウンドが狭く、後からできた野球部がそのグラウンドを使える日は、休日に他の部活が使用していない日のみという状況でした。その練習環境は分かった上で活動していましたが、入学以前からわかっていたことがあります。進学校であるが故の勉強と部活動の両立の問題です。初期メンバーのY・W君もこの問題にぶつかり、残念ながら退部をした一人です。創設当初、メンバー勧誘に奔走してくれた人物であった彼を失うのは、とても心苦しかったです。そしてもう一人、途中からマネージャーとして入部してくれた1年生のR・Kさんも、同じ理由で退部してしまいました。その後も部にこの問題は付き纏い、部を去って行った後輩を見てきました。ただ、辞めていく人もいれば、入ってくる人もいます。Y・W君退部前の少しの時期、プレイヤーが10人になった時期がありました。S・T君の伝手で、漫画研究部に所属していたR・M君を紹介してもらい、声をかけてみました。失礼ながら運動が得意なようには見えず、練習について来られるのだろうかと心配もしていましたが、練習に参加するうちに正式に野球部に入部してもらえました。Y・W君退部後は再び9人となり、ギリギリの状態で練習をこなしておりました。秋季大会後の練習試合では、チーム初得点やゲッツーを決めるなど、少しずつですが実力をつけていきました。ただ、勝利の女神は未だ微笑まず、そのまま冬練へと突入しました。他チームは、この期間でみっちり基礎トレなどを行うかと思いますが、三田高校野球部は普段から基礎トレの為、特に練習内容も変わらず行っておりました。そんな日常に刺激を与える出来事が起きました。朝日新聞の取材を受けたことです。M先生が依頼をしていたらしく、長く野球部を持たなかった学校の新設野球部という事で興味を持たれ、話が来た形です。普段の練習風景から、創設までの経緯、心情などを話しました。その記事は、東京欄の1ページの2/3程を使い、紹介されておりました。学校の友達や旧友からも連絡をもらい、宣伝効果はかなりあったのかなと感じました。俄然やる気も出てきて、練習に身が入りました。

年が明け、話題も新入部員に関する事が多くなっておりました。何より、せっかく創部したのに新入部員がいないのでは、意味がありません。知っている後輩に当たっても、一般入試をクリア出来なければ入部はおろか、三田高生にすらなれません。私たちにできることは、春季大会で結果を残すこととM先生に言われ、修学旅行の荷物にバット括り付け、夕食後に部員で集まり、素振りなどのトレーニングを続けました。その春季大会の相手は、都立日野高校。西の都立の雄で、夏ベスト4にも勝ち上がる強豪校です。正直、M先生は、秋季大会以上の大敗を覚悟していたそうで、私達には敢えて都立日野の事は話さないようにしていたそうです。メンバーが少し変わったものの、多少なりともきつい練習をこなし、練習試合をしたおかげか、スコアは0-285回コールド負けで終わりました。客観的には決して喜んではいけないスコアですが、試合後に先生からの叱責も特になく、今思えばあの戦力にしては善戦した方だと思います。

結局、春季大会もいい結果を残せず、新入部員増への希望も薄れる中、入試合格者の中から1人だけ体験入部に来てくれた子がいます。R・H君です。彼は上背がありガッチリとした体型でしたが、やや俊敏性に欠け、一緒のメニューをこなすのに苦労していました。しかし、練習後には「野球部に必ず入ります」と言い残してくれて、少しホッとしたのを覚えています。この年の新入部員はR・H君を含めた選手7名(H・A君、H・I君、K・K君、R・S君、R・T君、Y・M君)が入部してくれました。初勝利こそならなかったものの、彼らが来てくれたおかげで着実に以前より良いスコアで試合を進めることができるようになりました。在籍時期はズレますが、マネージャーの3人、N・Kさん、J・Tさん、H・Aさんは、献身的にチームを支えてくれました。共に戦ったのは3ヶ月ちょっとではありましたが、彼らから学んだ事は多く、とても良い後輩を持ったと感じました。

 創設奔走から12ヶ月余り、第89回全国高校野球選手権大会 開会式の日を迎えます。いわゆる3年生最後の公式戦で、偶然にも89(やきゅう)回を数えるこの大会は、私の代の最初で最後の夏季大会となりました。初めて多くの強豪校を目の当たりにし体格差に驚き、神宮球場の芝生を踏みしめ、ヘリコプターからの始球式も生で見る事となりました。雨での2回の順延を経て、私達にとって、そして三田高校にとっても初の夏の大会、2007714日、対学芸大学附属高校との試合を迎えます。快晴となり、休みの日というのも手伝ってか、両チームとも多くの方々が応援に来ておりました。大会前の怪我でS・T君を欠き、全員でカバーしていこうと臨んだ初回の攻撃から悲劇が起こってしまいます。23塁で打順はチームの主砲、J・A君。先制点の期待も高まる場面でしたが、頭部への死球を受けてしまいベンチへと下がってしまいます。幸い大事には至らなかったものの、いきなり4番と正捕手を失ったことで、チームに動揺が走りました。結局初回は0点に終わり、最初の守備につきます。今まで何千球と私の球を受けてくれたJ・A君は下がってしまった為、1年生のY・M君とのバッテリーで臨みました。試合はおろか、練習ですら組んだ事の無かったバッテリーは、早速先頭打者を迎えます。打席に入った矢先、相手側スタンドからブラスバンドの演奏が始まりました。初めてのブラバン演奏の中でのプレーとなりましたが、私は脳内で勝手に「自分への応援」と都合良く解釈し、味方のファインプレーもあり、序盤は0で抑える事が出来ました。試合が動いたのは、3回裏。四球とエラーでランナーを溜め、一気に4点を奪われました。徐々に地力の差が出始め、5回は相手4番に2点本塁打を打たれ、6回裏、2点を追加されサヨナラコールドとなりました。整列をし、スタンドへの挨拶の時、改めて応援してくれた人の多さを感じました。試合後、泣いているチームメイトも居ましたが、私は泣くことはありませんでした。思い返せば入学時に、まさか2年後の夏、自校のユニフォームを着て、白球の行方に一喜一憂しているなんて思いもしなかったので、悲しさ悔しさより充実感の方が多く、涙は出てきませんでした。各新聞社の取材を終え、応援してくれた人を確認すると、家族やクラスメイトを始め、当初顧問を打診していた数学のS先生や中学校時代の友人も来てくれていました。様々な人の支えがあってこの日を迎えられたのだと、強く感じた瞬間でした。最後のミーティングの時は、「2年後の夏は必ず勝ってくれるでしょう」と後輩に発破をかけ、3年生は皆笑顔で高校野球生活に別れを告げました。

私個人としては引退後、再び人数がギリギリとなった新チームに、助っ人として練習に参加したりして、出来る限りのフォローをしていました。新チームは、練習試合で遂に初勝利を挙げ、3期のチームでは秋季大会で公式戦初勝利、そして私が引退時にかけた言葉の通り、悲願の夏季大会一勝を果たしてくれました。その後は、なかなか勝てない時期もありましたが、10年目を迎えた2016年には夏季大会で2勝し、作夏準優勝の日大豊山に善戦といったレベルまで成長を遂げました。

 一つ、この経験から考え直した事があります。それは『野球は1人では出来ない』という言葉の意味です。度々、独り相撲をしている投手に向けて使われる言葉ですが、今回はもっと当たり前な物理的な方の意味です。9人居なければ試合が出来ないのはお解り頂けるかと思いますが、9人居なければチームとしてすら認められない、部活動すら出来ない、まして1人では何の力にもなりません。共に同じ志を持ち集まってくれたチームメイト、正しい方向に導いてくれる先生、いつも支えてくれる家族、陰ながら応援してくれる方達がいて初めて、【野球】というスポーツが成り立ちます。OBとして後輩の試合の応援に行くと、少しずつですが、スタンドに人が増えているのが分かります。声援の多さに比例してチームの成績も上がってきています。ほとんどの生徒は、この言葉の意味を引退してから理解すると思いますが、それはそれで良いと思っています。只ひたすらに、がむしゃらに白球を追いかけてくれれば、自ずと周りは応援してくれるはずです。現役の子たちは、応援してくれる事を当たり前と思わず、誠心誠意物事に向かってくれることを願います。

 最後になりますが、創設時に掲げた私なりの部のモットーは『入部前より野球を好きになって卒業する』です。私自身、野球に出会ってから様々な経験をさせてもらいました。メジャーなスポーツという事もあり、共通の話題として盛り上がり、野球の動きは他のスポーツにも通じる為、やっていて良かったと思えるシーンが多かったです。そして何より苦楽を共にした仲間と卒業後も野球の話が出来るのが嬉しいです。私の代は野球をあまりやって来なかった人が多かったので、つらい練習を経験し嫌いになってしまうのではと危惧しておりました。今後も「また野球がしたいね」と自然と口に出してくれるOBが増えてくれれば創設冥利に尽きるなと感じます。

 高校生活は長い人生の中の僅か3年間という短い期間ですが、行動次第では掛け替えのない経験をさせてくれます。三田高校野球部を通じて、現役の生徒がまた新たな変革を起こしてくれる事を期待します。この先50100年と続いていくであろう三田高校野球部に刺激を与え続ける為にも、暖かいご声援を今後ともよろしくお願いいたします。

 

山中 弘己